ヤナセ販売協力店 ウジタオートサロン Blog(ブログ)
クルマを通じて一生涯のお付き合い!
関西、大阪のベンツ・BMWを中心とする輸入車、外車の中古車・買取情報を発信中!
 カテゴリ
新着入庫
スタッフの心のこもったメッセージ
ニュース
ウジタオートサロンについて
社長の対談・講演シリーズ
お客様の声
ユーザーボイス
氏田耕吉のひとりごと
植田茂夫のひとりごと
安田和弘のひとりごと
加藤宣晶のひとりごと
早川慶太のひとりごと
氏田裕吉のひとりごと
紺野達哉のひとりごと
スタッフ紹介
メールマガジン
スタッフのおすすめグルメ
車関連最新ニュース
紹介コーナー
モブログ
パーツ情報

 カレンダー
<< 2018年1月

1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31



 新着記事
あけましておめでとうございます。
ポルシェカレラ911のハンドルの振れを調整。
ルノー ルーテシア RSに限定車
イルミネーションはこれから
ヘッドライトレンズの黄ばみ&曇りをリフレッシュ♪
スマートフォンに自動車業界も注目
imagine.
【メルセデスベンツ ML350 ブルーテック 試乗】踏み込んで感激
「だらしなさに負けた」
アウディA6新型…さらにプレミアムに

 ブログ内検索
キーワードで検索します。

 バックナンバー
2011年01月(1)
2010年12月(16)
2010年11月(16)
2010年10月(44)
2010年09月(21)
more...

 RSSリンク
サイト最新情報をRSSリーダーにて受信できます。


このブログを自分の
「お気に入りブログ」に登録する。

 最近のコメント
ご無沙汰しております。父の名前が、...
ネットから拝見しました^^昔ながら...
ネットサーフィンで立ち寄りました^...
ネットから拝見しました^^ せんと...
貧者にはエコカーやエコポイントの対...

 最近のトラックバック
AUTO SALON TOKYO ...
塩害地仕様車の決定版!SCコートに...
etc t
gDAO???
g^ z[y[W

 訪問履歴
本日 全体
訪問者 132 1932854
コメント 0 161
トラックバック 0 13

ブログ店 クルマ版 トップヘ

Powered by ブログ店

会社創業からの沿革 A
2006/07/20 10:33:00
 

 <会社創業>  このあたりを企業の創業時期というのであろうと思い、「1950年、昭和25年創業」としている。亡き父寅吉は、その言葉を借りると「車や単車で直らないものがあれば、遠くからでも持ち込んで来た。」とか「車は音を聞いただけで悪い所が判り、直せる。」と自慢していた。
たしかに狭い工場ではあったが、いつもたくさんの職人さん達が忙しそうに働いていた。

当時の会社の人達、前列中央が氏田寅吉
当時の会社の人達
前列中央が氏田寅吉

工場内には自動車部品の製作や加工をするための本格的な施盤や工作機械が置かれていた。その様な工作機械は時代の流れの中で、すでに使っていないにも関わらず、私の時代になるまで大切に置かれていた。又、お客様についても官公庁関係が多く、大阪府警だけでも、地元の住吉、阿倍野、東住吉、南、黒山、堺北の各署パトカーはじめ土木関係の工営所の特殊自動車など、実に多岐に渡る車が整備入庫していた。

遠方のお客様ではっきり覚えているのは、兵庫県八鹿の土木局の方が特殊車両の整備や検査でよく泊まりがけで持ち込まれていた事だ。とにかく昔の弊社を知っている方々は「パトカーがよく入っている修理工場」と思っておられたと思う。それにしても今から思うとやはりすごい「整備職人」の会社だったようだ。


加古川支店のガソリン支店開所、昭和35年、氏田寅吉、伊保子
加古川支店のガソリンスタンド開所、昭和35年、氏田寅吉、伊保子夫妻

<事業家>  又、事業欲も旺盛で、前述の加古川支店にガソリンスタンドを併設したり、納入業者だった部品商の経営に参画したり、得意先の運送会社の経営を引き受けたりしていた。特に運送会社は大福運送株式会社といって、後年当時勤めていた番頭さんに会社を譲ったが、その後私が初めて不渡手形をつかまされた会社となったので、忘れることは出来ない。
その後、南住吉にも工場を作り、事業を展開していくことになるが、後継者問題には悩んでいた様だ。

氏田寅吉 、氏田 耕吉
父(寅吉)と私(耕吉)

そんな父寅吉であったが、病いには勝てず昭和43年8月10日、突然この世を逝る。享年60歳であった。時期が急だった事もあって、この後、事業継承に困る事になる。父の事業家としての活動には今でも敬服しているが、逆に「反面教師」として「人を育てる」点では特に勉強になった。拠点を増したり、新規事業をしていく時の「人」の重要さである。負けず嫌いというか自信家というか、「自分は尋常小学校と夜間学校しか出ていない。それでも腕に職があれば良い。」とよく言っていた。自分に自信があり過ぎたのか、その分人に頼らない。だから人が育たない。「男の意地」も大事だが、「弱さ」を見せる事も良いように思う。又自分から、こちらから詫びる勇気を持つ事を、今、私は肝に命じている。


南住吉工場
南住吉工場

<二代目  就任>  初代寅吉逝き後、二代目社長に私の兄 氏田洋吉が就任した。しかし先代が超ワンマンで何でも出来た人であっただけに、後継者の兄は大変苦労した様だ。私は高校3年生だったので、その辺のところは、はっきりとは分からないが、関西大学の二部(夜間)に通いながら、会社に入社する様になって問題の大きさに気がついた。“自動車屋”という仕事は、実に多くの要素から成っているということだ。

 

まず、実務としての整備技術、営業、事故処理、保険、登記関係、、そして経理としての銀行関係、資金繰り等々、まだまだ諸々ある。書き出すとキリがないので省略するが、組織としてある程度以上の規模になると、やはりもう少し社員で分担した運営を考えておいてもよかったのかも知れない。

会社はやがて技術的な問題からも営業が出来ない点からも、経営がうまくいかなくなり資金繰りにも困るようになって、昭和46年、企業縮小をせざるを得なくなり南住吉の工場を手放した。一代で頑張ってきた父の息子としてこの時の悔しさは今でも忘れる事は無い。


ダットサンに乗る 氏田 耕吉
ダットサンに乗る 氏田 耕吉

<氏田耕吉・社長就任>  社長就任などと書けばカッコ良く聞こえるが、実は私、耕吉は昭和46年頃からの会社不遇の時代「夜間の大学」を卒業するまでのつなぎのつもりで、1人で仕事をしていた時期があった。
勤めに出るのならという事で、古くからのお客様やお知り合いの方々の整備を引き受けていた。これが、当時の私の収入であった。


 
今、この年になって考えてみれば、親しいお客様方や友人、知人、又その親御様には大変なご支援を受けていたことがよく分かる。

 
南工場前にて(13才)
南住吉工場前にて(13才)

 「掛けた情は水に流せ、受けた恩は石に刻め」という言葉があるが、果たして一生をかけてもお返し出来ない程の恩を受けたと思っている。

とにかく昭和46年会社発祥の地、住吉区帝塚山の工場で私1人で再スタートする事になる。仕事があれば、何でも引き受ける姿勢であった。

昭和48年に結婚をし長男、次男が生まれてからは、「もう逃げ出せない」「一生この仕事」という思いで頑張った。

長男・次男と夫婦で
長男・次男と夫婦で

会社の方も一段落したので、昭和50年6月に三代目代表取締役として就任登記した。ちょうど、昭和40〜50年というのは自動車関連業界の高度成長期であった。古い歴史を持ちながらも、企業縮小という点で整備工場としては世の中の流れに乗り損ねた感もあったが、当時自動車の性能どんどん良くなり故障も減り、時期がくればやがて車検制度も見直されるであろうことは、冷静に考えてみればおおよそ察しがついた。その時、整備専業の工場だけで、どうして食べていけるのか?と思い、中古車販売を手掛けることになった。

この記事のURL : http://wa2899.blogten.jp/33867.html
お問合せ   |   コメント(0)   |   [前の記事]   |   [次の記事]   |   ▲TOP

この記事にコメントする

名前
メール
URL
コメント
コメント認証キー
イメージを更新
※複数のページを開いてる場合は、コメント登録前に認証キーを更新して登録してください。


 
ブログホーム
在庫リスト
パーツリスト
ショップ紹介